最近、少しずつまたカフカ

全部の回は観れなかったけども、5月のETV「100分de名著」はカフカの「変身」を取り上げていた。
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/12_kafka/index.html#box04


カフカ熱が少しずつ上昇してきている。


物を書くという習慣を、なんとかからだに叩き込みたいと思い、好きな小説を原稿用紙で100枚分書き写す、といってもwordに打ち込むのだけども、という荒行(でもないか)を課すことにした。一日6枚分くらいを打ち込んでいる。
その課題の小説を白水社カフカ・コレクションから「失踪者」(池内紀訳)にした。

失踪者―カフカ・コレクション (白水uブックス)

失踪者―カフカ・コレクション (白水uブックス)


ビルドゥングスロマン風な展開をするのが好きなのである。
「変身」や「城」はよく語られるが、「失踪者」(旧「アメリカ」)はあまり語られていないように思う。
詳しく解説しているものがあれば読んでみたい。


今日、ちょうど主人公の少年カール・ロスマンが、女中に手籠めにされてしまうという部分を打ち込んでいたのだけども、こういう生々しいエロチックな場面の描写というのはカフカには珍しいような気がする。これは経験に基づいているのだろうか?


先日、DOMMUNE佐々木敦氏と保坂和志氏の対談を、これもしっかりとは観れなかったけども流し観して、「カフカ式練習帳」をぜひ読まなくてはと思ったところ。

カフカ式練習帳

カフカ式練習帳


カフカの小説は“不条理”というキーワードで前世紀までは読者を集めていたようだったけれども、ここ最近は“孤独”“こころの弱さ”という現代人の気質と共鳴するようなところで読まれているよう。それを否定するわけじゃないけども、共鳴や共感だけである作品を好きになる、というのは感性を狭めるように思ったりもする。


せっかくいろいろとカフカの繋がりができてきているので、またあらためてカフカの魅力を考えていきたい今日このごろ。
ちなみに6/3はカフカの命日だそう。

Final Destination シリーズ

最近4作目、5作目と立て続けに観て、ワンパターンなのになぜか嫌いになれない、むしろそれ故に愛らしいともいえるこのシリーズについて、ちょっと記しておきたいので。


このシリーズ、日本では1作目こそ「ファイナル・デスティネーション」で公開されたが、それ以降は「デッドコースター」(2作目)、「ファイナル・デッドコースター」(3作目)、「ファイナル・デッドサーキット3D」(4作目)、そして2011年公開の今のところの最新作「ファイナル・デッドブリッジ」(5作目)と毎回異なる邦題がつけられている。それでも3作目以降は、一応「ファイナル・デッド」が冠詞として定着、そのあとに毎回決まって開巻を飾るスプラッターな大惨事の舞台となる場所がプラスされる。3作目はジェットコースターが暴走するので「コースター」、5作目は巨大吊り橋が崩落するんで「ブリッジ」、てな具合に。
※ややグロ注意

あらためてこのシリーズ全作に通じるプロットを説明すると、主人公の若者(男、女)が突然天啓を受けたかのように、これから自らが巻き込まれる阿鼻叫喚の大惨事の予知夢を見てしまう。主人公はパニックになって、友人やたまたま周囲にいた人を引き連れてその場を離れる。と、まさにその時夢に見た大惨事が起こり、主人公らは間一髪で助かる。ホッと胸をなでおろしたのもつかの間、本来その大惨事で命を落とすはずであった主人公らに、死の運命が容赦なく迫るのであった。と。
この基本プロットはシリーズ通して全く変わらないので、このシリーズ最大の醍醐味は、なんといってもどのようにして主人公らは死の運命によって殺されるのか。その死に方も、心臓麻痺や脳溢血でぽっくりという死に方は一切ない。死の運命は、どうやら肉体を破壊し、血を噴き上がらせ、首や胴をスパッと切るのがお好きと見えて、いかに残酷に人体を損壊せしめるか、ここが見所になっている。俗悪の極み。4作目以降は3D対応となり、俗悪度がさらに増しているかと思われるのだが、残念ながら劇場で鑑賞していない。


このシリーズのユニークなところは、殺される人はいても殺す人はいない、つまり運命という目に見えない何者かが相手だということ。「13日の金曜日」のジェイソンや「エルム街の悪夢」のフレディにあたる殺人鬼はいない。故に、主人公らは誰を相手にすることもできず、ただひたすら「自分は死んでしまうのだ」という見えない運命から逃れようと画策するばかり。そして死の運命というやつは、ただひたすらに死を迫るばかり。死神なんて野暮な姿をとりもしない。
そう、このワンパターンがいい。個性的な殺人鬼を出すと、どうしてもシリーズを重ねていくうちに、出生の秘密に迫らざるを得なかったり、より超人的なモンスターへと成長(?)させなければならなかったりして、それが白々しくなってしまうのだが、Final Destinationシリーズでは、死の運命は自然の摂理、昔も今もこの先も変わらない。この筋の通し方が好き。
それと、主人公らには結局なんの打開策も与えられない、というのもいい。死の運命には太刀打ちできない。
人体損壊ショーケース的なエンターテイメントを構築するのにあたって、製作者らはプロットはワンパターンでいいや、ということにしてしまった。この開き直り方が、なぜだか爽快。
コンスタントに3年に一本作られているようなので、3年でなく4年に一本オリンピックみたいに舞台を毎回世界各地に移してもいいし、手の込んだ人体損壊エンターテイメントを見せてもらいたい。

春の公開映画

ゴールデンウィーク、といって浮かれるようなことも特にないのだが、4月も終わりにさしかかり、振り返ると3月4月と結構面白い映画が公開されていたのに、観に行けなかったな、と悔しい思いが滲んできたり。


観られなかった映画を偲びつつ、しかしまだ今日明日公開で足を運べる映画には思いを馳せ、思いだけでなく実際身体ごと馳せなくてないけないのだが、それがゴールデンウィークの唯一のひとりの楽しみになるかも。
まあ、観られなかった映画、これから観に行くかもしれない映画を列挙して、連休前の夜の気晴らしに。


3月公開は、
まず「テイクシェルター」

ヒリヒリする感じ。ロッジ・ケリガンの「クリーン、シェーブン」を思い出す。


ライアン・ゴズリング主演の「ドライブ」

フィルムノワール、銃と車。色気を感じる。


知らないうちに公開していた「トロールハンター」

モキュメンタリーなの?いや、予告観る限りは完全にモンスター映画。


4月公開は、
これはホントに観に行きたかった「コーマン帝国

カットアップされると過去の作品がどれも傑作に見えてくるから不思議。
ひとまず別冊映画秘宝「衝撃の世界映画事件史」でコーマンイズムを学ぶことにする。


以下は、これから公開なのでまだ観られる。
筆頭は、アキ・カウリスマキの「ル・アーブルの靴みがき

コントラストの強い照明、これがたまらない。予告編ですでに涙がにじむ。


「ぼくのエリ」が素晴らしかったトーマス・アルフレッドソンの「裏切りのサーカス

これまた色気を感じるスパイ映画。スーツやコートになぜか惹かれる。


女版「ハングオーバー!」と呼ばれているこれも。「ブライズ・メイズ 史上最悪のウェディングプラン」

これ、劇場はどういう客層になるんだろう?


こうやって並べてみると、意外と北欧濃度が高いのに気づく。

アンコーツ病院外来患者待合室

図書館でたまたま手に取った子供向けの美術本、佑学社「イメージの世界 描かれた都市」という本。

描かれた都市 (イメージの世界)

描かれた都市 (イメージの世界)

この中に紹介されていた一枚の絵にグッと惹きつけられる。
それが、イギリスの画家、ローレンス・ステファン・ロウリー(検索するとローレンス・スティーブン・ローリーの方が日本では一般的なのかな?)の「アンコーツ病院外来患者待合室」という絵。


一応本にならってロウリーと表記、このロウリーという画家、初めて知ったのだけれど、生年1887年〜1976年、「素朴な様式で市民の日常を描いた」、ウィキペディアの日本版には項目がなくて、でも20世紀のイギリスで割と人気があった画家だったらしい。オークションでの落札予想価格が2億円超?という2008年の記事もある。
英画家ローリー幻の作品が競売へ、落札予想価格は2億円超 写真7枚 国際ニュース:AFPBB News


画像がないので、といって絵を表現できるほどの文才もなく、困るのだが、この絵、タイトル通りアンコーツ病院の待合室をワイドに捉えて描いている。
ざっと50人以上もの人々の大方が、3列ある長いベンチに腰かけて診察の順番を待っているらしい。しかし、病院を感じさせるような辛気臭さ、無機質さが不思議とない。どこか中規模の駅の待合室なんかを連想させる。
頭に包帯を巻いている人、車椅子の人、担架に載せられている人もいるが、その他の人たちにはパッと見て病人らしい感じがしない。
簡単な点で描かれた顔からは表情が読み取れないのだが、どこか物憂げの様であり、でも印象としては決して暗くない、そこはかとなくユーモアがある。皆、いつ来るともわからない順番を待っている。もしかしたら、今日は呼ばれないかもしれない。と考え始めると、これ、カフカの世界に繋がっていくようにも思える。


なんでこの絵に惹きつけられたんだろう?
病院の待合室、とありながら、それらしく見えない。待っている人たちは退屈そうにしてはいるが、それが苦痛でも、面倒でもなさそうだし、重篤そうな患者も見受けられない。これ、日常的な光景?どこか異世界っぽいのだ。
50人以上もの患者がひしめきながら、まったく混沌とせずに、非常に静謐に表現されているのも、この場から連想させるイメージとは異なり、異世界っぽさに貢献している。
画面の半分から下にだけ人が描かれていて、半分から上は待合室の壁や天井といった高い空間が占めている。なんだか、これが静謐さというのか、落ち着いた印象を与える。
で、描かれた50人以上もの人たちが重なることなく、その多くの人たちが画面に向かって、表情のない点だけの顔を見せているのも面白い。鑑賞者に視線を返している!
実際、まったくこの視線に捕えられたのかもしれない!いちころ!


他にも色合いが、ロウリー自身「色はアイボリー、黒、朱色、紺色、黄土色、白だけを使い、中間色は使いません」と言っているように、ストイックに寒色系の色使いにこだわっている辺りが、個人的にはたまらない。
画集なんかあったら、ぜひ欲しいな、と。


アートの壁紙サイト?のロウリー作品、これらも実に面白い!
Laurence Stephen Lowry Paintings, Art, Oil Painting

どうしたら更新の頻度があがる?

なるべく更新しようと思う。あらためて。せっかく再開したのだから。月に5本くらいは最低書きたい。
で、どうしたら記事を書けるか、というのを考える。

まずは、時間をかけないこと。1本書くのに、あれこれ考えて、休んで、遠回りして、戻ってきて考え直して1時間2時間掛かると、また次書こうという時に、「これから1時間2時間か、、、」と面倒くさくなってしまう。当然。30分くらいで書くというのを当面の目標にしたい。

なんで時間が掛かるのか。お題を決めたはいいものの、ポイントを絞り切れずにあれもこれも触れなくてはいけない気になる。あれもこれもと思っても、それほど広く精通しているわけではない。調べてみたりするものの要領を得ず、やはり寄り道、遠回りする。そうして、さて書こうと戻ってきても、深く掘り下げることも、広く取り上げることもできず、無難にまとまって終わる。無難にまとまりすらしてないかもしれない。時間ばかりが掛かる。

ポイントを絞っても、「面白かった」「つまらなかった」「まあまあよかった」などと安易な感想をペタリとくっつけただけの記事では、書いていても面白みがない。読むのは尚更。そもそもtwitterで済んでしまう。自分なりに疑問をぶつけて、自分なりの答え、落としどころを描いて着地させる。そうでないとブログ再開した意味がない。

と、以上まとめると、1.月5本の記事、2.1本30分で書き上げる、3.ポイントを絞る、4.自分なりの疑問→答えを入れる。
この4点を意識して、ブログ頑張って取り組んでいこうと思う。看板倒れにならないように。ちなみにこれは30分以内で書き上げたぞ。

2012年03月28日のツイート