Final Destination シリーズ

最近4作目、5作目と立て続けに観て、ワンパターンなのになぜか嫌いになれない、むしろそれ故に愛らしいともいえるこのシリーズについて、ちょっと記しておきたいので。


このシリーズ、日本では1作目こそ「ファイナル・デスティネーション」で公開されたが、それ以降は「デッドコースター」(2作目)、「ファイナル・デッドコースター」(3作目)、「ファイナル・デッドサーキット3D」(4作目)、そして2011年公開の今のところの最新作「ファイナル・デッドブリッジ」(5作目)と毎回異なる邦題がつけられている。それでも3作目以降は、一応「ファイナル・デッド」が冠詞として定着、そのあとに毎回決まって開巻を飾るスプラッターな大惨事の舞台となる場所がプラスされる。3作目はジェットコースターが暴走するので「コースター」、5作目は巨大吊り橋が崩落するんで「ブリッジ」、てな具合に。
※ややグロ注意

あらためてこのシリーズ全作に通じるプロットを説明すると、主人公の若者(男、女)が突然天啓を受けたかのように、これから自らが巻き込まれる阿鼻叫喚の大惨事の予知夢を見てしまう。主人公はパニックになって、友人やたまたま周囲にいた人を引き連れてその場を離れる。と、まさにその時夢に見た大惨事が起こり、主人公らは間一髪で助かる。ホッと胸をなでおろしたのもつかの間、本来その大惨事で命を落とすはずであった主人公らに、死の運命が容赦なく迫るのであった。と。
この基本プロットはシリーズ通して全く変わらないので、このシリーズ最大の醍醐味は、なんといってもどのようにして主人公らは死の運命によって殺されるのか。その死に方も、心臓麻痺や脳溢血でぽっくりという死に方は一切ない。死の運命は、どうやら肉体を破壊し、血を噴き上がらせ、首や胴をスパッと切るのがお好きと見えて、いかに残酷に人体を損壊せしめるか、ここが見所になっている。俗悪の極み。4作目以降は3D対応となり、俗悪度がさらに増しているかと思われるのだが、残念ながら劇場で鑑賞していない。


このシリーズのユニークなところは、殺される人はいても殺す人はいない、つまり運命という目に見えない何者かが相手だということ。「13日の金曜日」のジェイソンや「エルム街の悪夢」のフレディにあたる殺人鬼はいない。故に、主人公らは誰を相手にすることもできず、ただひたすら「自分は死んでしまうのだ」という見えない運命から逃れようと画策するばかり。そして死の運命というやつは、ただひたすらに死を迫るばかり。死神なんて野暮な姿をとりもしない。
そう、このワンパターンがいい。個性的な殺人鬼を出すと、どうしてもシリーズを重ねていくうちに、出生の秘密に迫らざるを得なかったり、より超人的なモンスターへと成長(?)させなければならなかったりして、それが白々しくなってしまうのだが、Final Destinationシリーズでは、死の運命は自然の摂理、昔も今もこの先も変わらない。この筋の通し方が好き。
それと、主人公らには結局なんの打開策も与えられない、というのもいい。死の運命には太刀打ちできない。
人体損壊ショーケース的なエンターテイメントを構築するのにあたって、製作者らはプロットはワンパターンでいいや、ということにしてしまった。この開き直り方が、なぜだか爽快。
コンスタントに3年に一本作られているようなので、3年でなく4年に一本オリンピックみたいに舞台を毎回世界各地に移してもいいし、手の込んだ人体損壊エンターテイメントを見せてもらいたい。