持たない生活もよいが…

今年も半分が終わってしまった、ということだけを書きたくて久し振りにブログを。


ネタはいくつかあったのだけど、やはり思いついたときに書かないと自分の中で鮮度が失われていく、というのか忘れてしまう。本当に次々と忘れていく。関心を持ち続けるというのは、それだけで相当のエネルギーを費消するのだ、と改めて思う。いや、そこでつくづく思うのは、自分はエネルギーの配分が下手だ、ということ。デスクライトだけで事は済むのに、今いる部屋のあらゆる照明、さらに別の部屋もトイレも風呂場も廊下も家中全部の電気をつけようとしてしまう。そんなに明るくしなくてもいいのに。そもそもいまそこかしこを照らす必要はない。
自己嫌悪は自己愛の一種である、と「パンセ」でパスカルが書いているそうである。
そんなことを思い出す。


雨が降ったり止んだり、で本格的に降り始めてきた。にもかかわらず、うちの猫が外へ出せ外へ出せとしつこくせがむように鳴いて寄ってくる。すまない、あなたは家猫なので、それは家人が決めたことなのだけども、外へは出せない、しかも雨である。ようやく諦めて眠っている。


先日読み終えた「センセイの書斎 イラストルポ「本」のある仕事場」(内澤旬子河出文庫

は、林望に始まり、個人的に興味のある方を挙げれば、柳瀬尚紀津野海太郎養老孟司金田一春彦など錚々たる面々の仕事場を著者が訪問して、そこにある本たちの在り様にスポットを当てる、といったものである。整然とあるいは雑然と並び、積まれた本たち。個人的にはモノとしての本がどのように仕事場という空間に収まっている、あるいは溢れかえっているのかイラストではなく写真で楽しみたかったが。それは、タイトルに「イラストルポ」とある書籍に対してあまりに見当違いな感想であることは、一応自覚している。


仕事場をここでは書斎としているのだけども、書斎という言葉からイメージするかしこまった立派なデスクと作り付けの丈夫そうな本棚、そしてそこに収まったたくさんの本たちは、時代錯誤を超えて、ノスタルジックなちょっとした憧れすら抱かせる。教師であった父親がそんな書斎を家に持っていたので、いまだに自分でも書斎を持ってみたい気持がないでもない。今は割り当てられた部屋はあるけども、IKEAで購入した安っぽい本棚があるだけで、デスクもない。なので部屋で時間を過ごすことがほとんど、ない。
逸れつつある。そうではない。自分の部屋の話はどうでもいい。


書斎というのは要は自分の城である。そこに自分の興味のあるものを集めて、並べる、この快楽。場所を専有する快楽。モノを所有する快楽。仕事場とはいえ、書斎にはそういう快楽があるように思う。
でも、最近はそういう快楽はあまり求められていないよう。
と思ったのは、本とは別の音楽の話。
アメリカでは音楽の視聴はCDよりもっぱらダウンロードらしいが、最近ではダウンロードよりもストリーミングが人気なのらしいという記事。米国で若者の「ダウンロード」離れ、代わりにストリーミングが普及 | スラド
CDというものそのものだけでなく、データですら自前で持たない傾向が出てきている。


さて、結論がない。
持たないという価値観は、若者の車離れだとか、シェアという概念の広まりだとか、ノマドという働き方だとかと絡めれば恐らく一冊の本が出来てしまうだろうし、そんなテーマの新書が探せばありそうだ。興味があるので読んでみたい。
自分はまだどちらかといえば、書斎持ちたい派だし、できればモノを並べたい派、ではある。しかし、コレクター的資質に恐ろしく欠けているので維持管理ができないし、実は書斎なくても、モノを並べなくても、別にどうとでもなる派でもある。ガジェットに喜ぶ気質もない。
ただ、機能だけ満たされてればわざわざモノを持たなくてもいい、という合理的な考えは好きでないので、今時必要なさそうなものものしい書斎だとか、特に読みもしない本や聴きもしないCDを並べる、ということを楽しめるようではいたい、とは思う。無駄を楽しむ!


こんなまとめでリリースしてしまう。