火夫などはじめから…

カフカ「失踪者」(白水社池内紀訳)の第1章「火夫」を打ち終わる。
原稿用紙(20×20)で約70枚。毎日原稿用紙で6枚ほど打ち、10日とちょっと。


繰り返し読むという癖がなくたいてい一度読むとそれきりになり、そのくせ物覚えも悪いので、好きも嫌いも関係なしにいままで読んできた本、及び観てきた映画なども割と惜しみなく忘れていく。


時間をかけて好きな小説を打ち込んでいけば、何か新しい発見でもありはしないか、そんな打算があったが、そううまくいくものでもないらしい。


ただ、気付いたことといえば、文章が平易であるということ。これは訳者のなせる業なのか、難解な言葉も表現もほとんど出てこない。
カフカ=不条理、などという先入観があると、この平易さは意外に思う。
不条理だから難解、難解だから難しい言葉や表現がある、と考えるのはあんまり単純だとは思うが。こういう思考停止はよく起こる。


この「火夫」の中で名前を与えられているのは、主人公のカール・ロスマン、火夫の敵役シューバル、台所女リーネ。カール以外はそれほど重要な登場人物ではない。
それでもシューバルの名はところどころでなにやら憎たらしげな様子で現われ、スパイスのように効いている。うん、スパイス。シューバルの名はほかの登場人物ほぼ全員をいらいらさせるのらしい。
ほかにも名を与えられている登場人物がいる。ヨハンナ・ブルマーはカールを誘惑した実家の女中。エドワード・ヤーコプはカールの伯父。二人とも名前よりも「女中」「伯父」のほうが印象的で、むしろ名前のほうがぼやける。
もう一人いた。ブッターバウム、カールのトランクを預かって、そのまま持ち逃げしたと思われている人物。
火夫には名前が与えられず、彼らには与えられている、というのが気になる。気になる以上の考察はできていない。


伯父と偶然に出会い、いっしょにボートに乗って船を離れるカール。
火夫の待遇改善を直訴しに行って、なんらめぼしい成果を上げることのできなかった、正義を執行することのできなかったカールは「わっと泣く」。
なんの涙だろうか?


「火夫など、はじめからどこにも存在しなかったかのようだった」。
彼がいたからカールは伯父と出会うことができたのだが。
両親に見捨てられ、荷物を失い、異国の地で途方に暮れていた彼に救いの手が差しのべられる。
自分だけが行き場のない船上から抜け出して、こうして伯父と「膝と膝とが触れ合うほどの近さ」で相対していると、火夫などはじめから…


この最後の部分にグッとくるものが、ある。