「THE GODFATHER OF GORE」@第4回ちば映画祭

地元の千葉で映画祭が行われているというのをTwitter経由で初めて知って、そのラインナップが日本の骨太なインディーズ映画、サンダンスで話題になった「ベルフラワー」(日本公開も決まった、「マッドマックス」meetsジョン・ヒューズだとかいう非常にそそられる内容)、そして「バスケット・ケース」のフランク・ヘネンロッターが監督した、ハーシェル・ゴードン・ルイスのドキュメンタリーだというので、これは足を運んでみたい、と。全作品はさすがに観られないので、今回を逃すと観られそうもないのと、F・ヘネンロッター&H・G・ルイスの組み合わせに食指が動かされて、「THE GODFATHER OF GORE」を観に行くことにする。
花くまゆうさく画のポスターに導かれて、千葉市民会館地下1階の小ホールへ。オリジナルTシャツなどの販売、素朴なアンケート、会場内のパイプ椅子に長時間座ることを慮って入口で配られる座布団、有志による手作りの映画祭といった人肌を感じる。関係者らしき人たちが受付の辺りで、なにやら談笑している。こういう小ぢんまりとした映画祭では、「主催者、映画関係者、観客の距離が近くて交流が持てるのがいいところ」とはよく聞くけれども、なかなかそういう輪にスッとは入っていけない。知り合いも、きっかけも、図々しさもない身では。
今回は一本しか鑑賞できなかったので、決して「ちば映画祭」の盛り上がりに貢献できたとは思えないが、近場でこうしたシネコンでは観ることのできないような作品が観られるというのは、やはり楽しい。次回の開催にも期待したい。
ちば映画祭HP→http://chibaeigasai.zouri.jp/

で、本題、「THE GODFATHER OF GORE」。はじめに断わっておくと、批評ではないし、感想でも多分なくて、作品観ながら思い出したり、考えたりしたことの雑文をランダムに綴るという感じになる。
「THE GODFATHER OF GORE」。60年代初頭、ホラー映画のサブジャンルである“ゴア”を生み出した監督ハーシェル・ゴードン・ルイスについてのドキュメンタリー。
予告編(※“ゴア”ゆえ過激なシーンもややあり)→
“ゴア”って何?と調べてみると、“流血”“血糊”というのが辞書にならった意味合い。ひたすら血が噴き出す、血が流れる、というのを売りにしたエクスプロイテーション映画を“ゴアムービー”と呼ぶ。“ゴア”と同じような意味合いで“スプラッター”というのがあるけども、厳密にどう使い分けされてるのかはよく知らない。ほぼ同じ、ということでよいのかな。ただ、個人的には“スプラッター”といって真っ先に思い浮かぶのがサム・ライミ監督の「死霊のはらわた」で、リアルな流血にはこだわらず、もはやコントに近い滝のように流れる血が見所、といったものが“スプラッター”という認識。
H・G・ルイスの作品は、もう、多分10年以上前に「血の祝祭日」と「2000人の狂人」は観たような気がする、といった程度で、とりわけ深い思い入れがあるわけではなかったのだが、彼のドキュメンタリーを、最近音沙汰のないフランク・ヘネンロッターが監督している、というこの取り合わせの妙に、「立ち会わないと」という使命感のようなものがフッと胸をよぎる。たいていこういう感覚はスルーしてしまうことが多いんだけども、たまたま場所的にも、時間的にもタイミングがあったことが、そういってよければ、まあ、運命的なもので、実際に足を運ぶに至った理由。
てっきり、彼の名を映画史的に刻んだ(?)“ゴアムービー”を中心に制作されているのかと思い込んでいたが、まずは彼がこの世界に足を踏み入れるきっかけとなった、そして成功の足掛かりとなったヌーディスト映画(映画では“ヌーディ・キューティー”と言っていた)からドキュメンタリーは始まる。
50年代末にシカゴの小さな製作会社を買い取ったことから映画製作に携わるようになったH・G・ルイスは、デイヴィッド・フリードマンというプロデューサーと出会い、2人して儲かる映画を作るべく、当時当たりをとっていたヌーディスト映画に目を付ける。ヌーディスト映画ってのは、露骨な性表現では規制の対象になるので、単に全裸の男女が陽光降り注ぐ海辺や原っぱで、陽気に踊り、健康的にスポーツをしているだけですよ、という建前でヌードを売りにする映画。劇中では、典型的なヌーディスト映画の物語として「お堅い女性新聞記者が、ヌーディストキャンプを取材に訪れて、自然の素晴らしさに目を開かされて、自分もヌーディストになる」と説明される。「くだらなそう」と失笑しながらも、相反して「観てみたい」という欲求も。ヌードから性的なイメージを取り去ると、ただただ人の身体が、どこか間抜けな感じに放り出される。舞台はフロリダ、プロポーション抜群の若い男女たち、ヒッピーみたいな共同生活、四六時中全裸。今観ると、無邪気。これ、仮に今こういうのを撮ろうとすれば、過激なエコロジー思想を持った人々とか意味づけされた、シニカルな近未来SFみたいな映画になるんだろうか、などと。無邪気さだけでは今は映画は作れない。「ヌードが見たいなら見せてやろう」って、観客が無邪気だったんじゃなくて、作り手が無邪気だったんだろうな。
で、ヌーディスト映画も下火になると、「誰も見たことがなくて、でも誰もが見たいと思ってるものを見せてやろう」、じゃあ、「血だ」となる。エクスプロイテーション映画のこうした無邪気さ、単純さに惹かれる。
ちなみに、ヌーディスト映画で、ふと思い出したのが、秋田昌美のこの本→

裸体の帝国 (ヌード・ワールド―ヌーディズムの歴史 (第1巻))

裸体の帝国 (ヌード・ワールド―ヌーディズムの歴史 (第1巻))

これ、読み返してみたいと思ったけど、売っちゃったな。
柳下毅一郎の「興行師たちの映画史 エクスプロイテーション・フィルム全史
興行師たちの映画史 エクスプロイテーション・フィルム全史

興行師たちの映画史 エクスプロイテーション・フィルム全史

にも、ちゃんと「セクスプロイテーション映画の隆盛」と一章割かれた中に、ヌーディスト映画について書かれている。H・G・ルイスとデイヴィッド・フリードマンについても、別の章で触れられている。エクスプロイテーション映画を、“ゴミ映画”で片付けないで、こうして本だとかドキュメンタリーだとかで記録に留めておくのは大事だな、と改めて思う。