「ラブリーボーン」続き

(※ネタバレお構いなしです)
調和のとれた、美しい世界に生きていると疑わなかった14歳の少女スージーに、突如降りかかった不条理な死。スージーがいなくなったことで、家族の関係はぎくしゃくし始める。父ジャックは、趣味であったボトルシップを手当たり次第に破壊する。調和のとれた、美しい世界なんて嘘っぱちじゃないか、と。その一方で、殺人鬼はのうのうと近所で一市民として日常生活を送っている。彼の作るドールハウスは、精巧な作りにもかかわらず、人(形)の姿がない。外面はなんら後ろ指差されることなく体裁を繕っているが、内面には人の心がないとでもいうように。そんな彼の生活も次第に調和が乱されていく。スージーの妹リンジーが、彼に疑惑の目を向ける。証拠を握られた殺人鬼は、結局調和のとれた生活を捨てて逃げださなくてはならなくなる。
サスペンス映画を期待して観ていると、この殺人鬼がまんまと逃げおおせてしまうのに幾分か納得できないというか、こんな理不尽が罷り通っていいのかと胸のむかつきを覚えないでもないだろうけども、大丈夫、ここは因果応報的なオチが用意されているので、少しはスッとするようになっている。
でも、それで「めでたしめでたし」という単純な話ではないし、スージーの家族が彼女を失ったというその喪失を抱えながらも絆を回復して前向きに生きていこうとするところに感動が芽生える、という話でも、どうやらない。ポイントは、やっぱり死んだスージーの視点で、彼女が現世に対して色んな悔いを残しながらも、最終的には、そうした悔いや未練を乗り越えて、「それでも世界は美しい」と悟るところにある。いや、彼女自身が「世界は美しい」と感じているんじゃなくて、もはや彼女でも、私でも、誰でもがそう感じるというのでなく、ただ「世界はありのままで美しい」と提示して終わる。この、世界に対するポジティブな肯定が、不意に涙を誘う。
なんだかうまく説明できないな。私が「美しい」と感じるから、この世界は「美しい」のではなく、世界は誰がどう感じようと、ありのままで「美しい」。胸のむかつくような事件もあるけれど。
スージーが同級生のルースの身体に憑依して、初恋の相手とファーストキスをして成仏するラスト。スージーが現世に残した幾つかの悔いのうち、最後に果たしたものが、自分を殺した犯人への復讐でも、家族の絆の回復でもなく、彼とのキスっていうのが、なんだかスッと入ってくるというのか、感動的。この辺りジュブナイルの要素も入ってる。
で、原作はアリス・シーボルドの同名小説。読んだことはない。検索して調べてみると、彼女は大学1年生の時にレイプ被害に遭っていて、その体験を自伝的に記した「ラッキー」(このタイトルも皮肉というよりも、裏返って前向きに信じていこう、という気持ちの表れなのかも、と推測する)でデビューしたとある。こうしたバックボーンを知ると、胸のむかつく事件や人をも含めて肯定していこうという力強さに説得力を感じる。なるほど。
ごちゃごちゃとまとめもせず、思ったことを書き連ねたけども、ピーター・ジャクソンが大作の合間にリフレッシュのために作った(のかどうだかわからないが)と思わせておきながら、死後の世界の映像には目を見張るものがあるし、ラストの甘酸っぱさと「世界はありのままで美しい」という肯定感にうっかり泣かされてしまう佳作。

ラブリー・ボーン

ラブリー・ボーン

ラッキー

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